2006.06.23

「死ぬこと。」

 人の死を初めて身近に感じたのは保育園に通っていた頃のこと。
 転入してまもなくの頃、交通事故で同級生が亡くなった。皆が大広間に集められ「○○ちゃんが車に轢かれて亡くなりました。皆も車には注意しましょうね。」と注意事項ばかりを言われていた。
 話を聞きながら、足元の畳の黒いシミがその子であるような感覚にとらわれて、指でそっと撫でてみたりしていた記憶がある。
 そのつぎは小学校の同級生の死だった。喘息だった。
 その後も上級生が自殺したり、シンナー中毒で同級生が死んだりしたことはあった。でもそれはどこか遠くの出来事だった。
 それは多分実際に「生きていない」肉体を目の当たりにしていなかったからなのかもしれない。
 そして父の死。寺の小部屋に安置された父は小さくなっていて蒼白く、もはや「ひと」ではなかった。
 私がひとの「死体」をみたのは父が初めてだった。
 これがひとの「死」なのだ、と愕然とした。目は開かない。手は冷たいし、体はもう硬くなっていた。口や鼻に綿が詰められていた。病床でほとんど意識がない中でも呼びかけにかすかに反応していた筋肉の動きがない。
 「死んじゃったんだ」
 死装束がやたらにキラキラと白く「死体」には不釣合いに映った。

 魂だとか霊魂だとか目に見えないし、そんなものがあるのかどうかなんてことすらわからない。そこにあるのは「死体」であり「骨」であり、無くなったのは物体としての「その人の存在」である。もう触れることもできない。声を聞くこともできない。
 ただ思い出すだけ。夢に見るだけ。写真を眺めてみるだけ。
 いつもそばに居た人の死で「自分は生きている」ことを痛感させられる。

 んー、何かまとまらないので一応「続く…」

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 私がひとの「死体」をみたのは父が初めてだった。 これがひとの「死」なのだ、と愕然とした。(Mappy’s「死ぬこと。」)人の死を「死体」を通して感じる、ということはしゅっちゅうあるものではありません
亡骸と、今際の際と。 | sugar pot at 2006.07.04 12:16
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